'At the core of every culture lies a particular view of the body which establishes which perceptual experiences the culture decides to value. In trying to achieve those experiences, certain principles for moving and handling the body become deep-rooted. These, in turn,  pave the way for the mastery of essential skills in the arts from which the culture can flourish.'
文化的アイデンティティは「存在」の問題であると同時に「生成」の問題でも
ある。それは未来と同時に過去に属している。歴史に属している。しかし、歴史
的なものの例に漏れず、文化的アイデンティティは絶え間ない変化を経験する。
 もし、広義の日本のアイデンティティが、日本国民による思考だとするならば、
芸術は狭義の日本文化であり、パフォーマンスアートはその間にあって儀式や作
法を育んでいるのである。
                              Dannie De Fazio
The traditional Kyoto dance called the  Kyomai Inoue Ryu refers to the Mai performed in the Gion Kobu district. The Inoue school is unique in the world of Nihon Buyo (traditional/classical Japanese dance) and its style is the only dance form studied by the  Geiko (Geisha) and Maiko, apprentice Geisha, of the Gion Kobu district.
The origin of the dance dates back to the Meiwa era, (1764 ~1772), and it is said that the final form was established during their third generation with influences from Kamigata dance, Noh and Joruri, a form of traditional Japanese puppet theatre. Since then this style of dance has been taught by a succession of female masters and it is passed down from generation to generation.
One of the greatest accomplishments of the Inoue school of Kyomai is the renowned  traditional spring dance of Kyoto, the Miyako Odori  (The Dance of the Capital). The piece was performed for the first time in 1872, and it remains an integral part of the cultural life of Kyoto, attracting many visitors. The name Miyako refers to the ancient capital of Japan, Kyoto.
Perhaps the best way to describe the main difference between Mai and dance is that a dance performance narrates a story, while in Mai audiences will feel as though they are reading a poem.
井上流
井上流(いのうえりゅう)は、日本舞踊における流派のひとつ。上方舞に分類され、京都で発展したことから「京舞」とも呼ばれる(京舞と呼ばれる分野には、他に篠塚流がある)。
「井上流」とは、儒者井上敬助の妹サトが近衛家で風流舞を学び、「八千代」という名と「近衛菱」の紋をもらって一流を立てたのが始まりである。
「踊り」とは言わず「舞」とする点を見てもわかるように、極度に硬い描線と身体の緊張を核として簡素な動きのなかに豊富なイメージを描き出そうとする舞であり、腰から上の身体技法によって感情を表すのが特徴的である。初代井上八千代が近衛家、一条家や仙洞御所づとめの折に能に示唆を得て貴顕の前に披露しても恥ずかしくない舞踊を作ったという口伝をそのままに体現した舞踊であるといえる。
京都の祇園は天保以前は「祇園町」と「祇園新地」に区別されており、祇園町の方が格が数段上とみなされ、明治以降は「甲部」と「乙部」という呼び方に変わった。万亭や芸妓、舞妓のあるほうが「甲部」で、「都をどり」も祇園甲部に始まった。
初代の姪である二代目井上八千代は才女として知られ、当時花街の師匠として風靡した篠塚流に対抗するには、もはや風流舞ではおぼつかぬと見て、江戸期より伝わる上方舞を集大成し、金剛流の能舞や人形浄瑠璃の人形の型、さらに歌舞伎からも取材して新しい舞を考案した。
この独特の舞が「京舞井上流」であり、これが祇園町と手を結ぶきっかけとなり、祇園甲部の正式唯一の流派として三代目井上八千代に受け継がれた。
明治5年、京都初の展覧会である京都博覧会の余興として、祇園甲部「万亭」の杉浦治郎右衛門と井上流三代目井上八千代が「都をどり」を企画。その振付けに三代目が「京舞井上流」を採用したのをきっかけとして、現在では京都祇園甲部の芸妓舞妓が習うお座敷舞や「都をどり」の流儀としても知られている。
井上流京舞は、三代目井上八千代の孫に当たる片山九郎右衛門と結婚した愛子(四代目井上八千代)に受け継がれた。
祇園のお留流(祇園では他流派の舞踊は許されず、また祇園以外の場所で井上流の舞の教授は許されない)とされた際の約束により、女性のみで男子禁制を謳う流儀としても知られる。
代々の家元が京都の能楽シテ方・野村金剛家や観世流の片山家と縁が深く、その影響を強く受けているとされる。
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